趙雲(ちょううん)「三国志演義」の人気者は地味だった?

三国志 5 漢

趙雲(字:子龍)は後漢末期から三国時代の武将。

公孫瓚の配下でしたが、公孫瓚のもとで戦っていた劉備と出会い。後に劉備の配下になりました。

趙雲は歴史書の「三国志正史」ではあまり出番はないのですが。正史のあとに追加で書かれた「趙雲別伝」で大幅に出番が増え。小説「三国志演義」でも劉備の仲間として大活躍します。

個性の強い劉備の仲間の中では真面目で有能な好青年として描かれることも多く。人気のある武将です。

劉備がまだ自分の領土を持たない時期から劉備を助けて戦いました。ただ劉備を慕っているだけでなく、時には自分が正しいと思ったら劉備の意見に反対することもありました。

ゲームやドラマでは美青年に描かれることの多い趙雲ですが。記録に残る趙雲は身長八尺(約184cm)と大柄で、見た目が立派な人物。美形というより武将として堂々としていたようです。ただ見た目が良かったのは間違いないようです。

「三国志演義」などの創作作品ではなく正史と「趙雲別伝」に残る趙雲はどのような人物だったのか紹介します。

趙雲(ちょう うん)の史実

姓:趙(ちょう)
名:雲(うん)
字:子龍(しりゅう・しりょう)

生年:160年代?
没年:229年11月

父母:不明
妻:不明
子:趙統、趙広

中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。。

冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)出身。

趙雲は袁紹のもとで常山郡の役人として働いていました。

初平2年(191年)。人々から義勇兵のリーダーに選ばれ兵たちを率いて北平の太守・公孫瓚のもとにやってきました。

やってきた趙雲に対して公孫瓚は「冀州の人々は皆、袁紹に従っていると聞いているが、どうして君だけが来たのだ?」と聞きました。

趙雲は「世は乱れ誰が優れた君主かもわかららず民は危機にさらされています。我々常山の者は相談してよい政を行う人の所に行くことにしました。袁紹ではなく将軍(公孫瓚)のもとで働きたいのです」と言いました。

こうして趙雲は公孫瓚の部下になりました。

劉備と知り合う

このころ高唐令だった劉備が公孫瓚に合流。趙雲は劉備と知り合いました。

公孫瓚は青州で袁紹と戦っていた田楷に援軍を派遣。ことき趙雲は劉備に同行。彼のもとで騎馬隊を指揮しました。

その後。兄が亡くなったため帰郷して喪に服すため、公孫瓚に辞職を願い出ます(儒教社会では肉親が死亡すると仕事を休んで喪に服す習慣があった)。このとき劉備に別れを言いました。劉備はもう趙雲に会えないかもしれないと思ったといいます。

建安5年(200年)。劉備は徐州で曹操に破れて袁紹に身を寄せました。

趙雲は劉備のために袁紹に気づかれないよう密かに数百の兵を集め、鄴城に行って劉備と合流しました。(趙雲別伝)

そして劉備は袁紹から独立。

劉備は劉表を頼って荊州へ

劉備が魯南で曹操の後方を攻めるのに失敗すると趙雲は劉備とともに荊州に行き劉表のもとに亡命しました。

建安7年(202年)。 曹操は夏候惇(かこうじゅん)と于禁(うきん)を派遣して劉備軍を攻撃。劉備軍は待ち伏せして曹操軍を撃破しました。趙雲は、このとき、敵の将軍・夏侯蘭を生け捕りにしました。(趙雲別伝)

長坂の戦いで劉備の妻子を救う

趙雲と夏侯蘭(かこうらん)は同じ村の出身で幼なじみだったので、劉備に夏侯蘭の命を助けてくれるように懇願しました。 劉備は夏侯惇を軍の長に任命しました。(趙雲別伝)

建安13年(208年)。曹操は侵攻を攻めました。劉表は前の都市に病死。劉表の子・劉琮があとを継いでいました。劉琮は曹操に降伏。彼は軍を率いて南方の江陵に逃れましたが荊州の当陽県長坂で曹操が率いる5000の兵に追いつかれました。劉備は妻子を捨てて数十騎の兵とともに逃走。

このとき配下の者が「趙雲が曹操に寝返った」と言ったのでその男を殴り「子龍は私を見捨てはしない」と言いました。

その言葉通り、趙雲は劉備の息子・劉禅を抱え劉備の妻・甘夫人を保護して戻ってきました。しかし劉備の娘二人は曹純に囚われました。

この戦いの後、趙雲は牙門将軍に昇進しました。

荊州の留守を任される

赤壁の戦いの後、趙雲は劉備とともに荊州の南部を平定ししました。 趙範の後任として将軍に任命され、桂陽(現在の湖南省陳県)の太守になりました。このとき、前の太守の趙範が未亡人の義姉(兄の妻)を趙雲に嫁がせようとしました。でも趙雲は断りました。(趙雲別伝)

その後、劉備は益州の劉璋から救援を求められました。

建安18年(213年)。劉備は諸葛亮・張飛・劉封たちとともに益州に向かい各地を占領しました。劉備は劉璋を救うつもりはなく益州を乗っ取るつもりでした。

劉備が益州に向かった後。孫権は劉備に騙されたと言って孫夫人を呉に帰らせました。そのとき孫夫人は劉禅を連れて行こうとしました。趙雲は張飛と共に長江で呉の艦隊を迎え撃ち、劉禅を取り戻しました。劉備は趙雲に荊州の内政を任せました。(趙雲別伝)

益州が平定された後、劉備から翊軍将軍に任命されました。

益州攻め

建安17年(212)。劉備の計画が劉璋にバレて劉備は劉璋と直接戦うことに。諸葛亮を呼び寄せて蜀に軍を進めました。

諸葛亮は趙雲、張飛を率いて長江を遡り江州(現在の重慶)に向かいました。軍を二つに分けて諸葛亮と張飛は北路を、趙雲は南路に別の軍を率いました。

劉備は成都を征服した後、趙雲を翊軍大将に任命しました。

漢水の戦い

建安23年(218年)。劉備軍は漢中を攻めました。
翌年。黃忠は曹操軍が米を運んでいるのを知るとそれを奪おうと出撃、趙雲も出撃しました。

ところが約束の時間を過ぎても黄忠の軍が戻ってきません。趙雲は黄忠が待ち伏せされたと考え、黄忠の救出に向かいました。敵軍と交戦したばかりの曹操軍の前衛が、すでに目の前にいるのに攻め込まれたのだ。黄忠と曹操軍は戦っていました。趙雲は何度か突撃を繰り返し、曹操軍を撤退させました。その戦いに劉備は「虎威将軍」と称賛したといいます。(趙雲別伝)

蜀漢の建国後

章武元年(221年)。劉備が「皇帝」を名乗り「漢(蜀漢)」を建国。

呉攻めに反対

劉備は呉の荊州攻撃と関羽の復讐のために呉を攻撃しようと考えました。219年に関羽は呉との戦いで戦死していました。

趙雲は「国賊は曹操であり孫権ではありません。魏を滅ぼせば、呉の孫権は服従するでしょう。曹操は亡くなったが、その息子曹丕が王位を簒奪し、国民の怒りを買っています。この国民の怒りに乗じて、まず関中を占領し、黄河上流と渭水を占領して、逆賊を打つべきです。そうすれば関東の義士たちは王を歓迎するでしょう。今は魏を放置して呉と戦うときではありません。しかし呉と戦争を始めてしまえば終わらせるのは容易ではありません。」と言って呉への攻撃に反対しました。

でも劉備は怒って趙雲の言葉をきかず、趙雲を江州に残して呉と戦うため出陣しました。

章武2年(222年)。劉備は呉との戦いに敗れ永安に逃げてきました。趙雲は永安まで軍を進めると、呉軍は撤退しました。

(趙雲別伝)

劉禅の時代

建興元年(223年)。劉備が死去、劉禅が即位。
趙雲は中護軍・征南将軍に昇進しました。「永昌亭侯」の爵位を与えられました。

後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)。諸葛亮は呉と同盟を結び、北伐(魏への攻撃)を決定。諸葛亮は魏と戦う兵を漢中に集めました。趙雲も漢中に配置されました。

建興6年(228年)。蜀漢軍は魏に向かって進軍を開始。諸葛亮が率いる本体と、趙雲・鄧芝が率いる別動隊が進軍。諸葛亮の本体は大回りして魏に向かいました。魏の曹叡はは斜谷街道を通る趙雲・鄧芝隊を本隊と思い曹真を派遣。趙雲は曹真と戦いました。

曹真軍は強く趙雲・鄧芝隊は苦戦。趙雲は殿(しんがり)をつとめ軍を撤退させました。このとき大敗は免れました。本体の方でも馬謖が命令違反して敗退。第一次北伐は失敗します。

戦いの後。趙雲は鎮軍将軍に降格しました。
俸祿も削減されたと言われます(華陽国志)。

また撤退するとき、赤崖より北の架け橋を焼き落して魏軍の追撃を阻止。その後しばらく鄧芝と共に赤崖を守ったともいわれます(水経注)。

建興7年(229年)。趙雲が死亡。息子の趙統が後を継ぎました。

五虎上将にはなってない

小説「三国志演義」では趙雲は「五虎上将」に任命されています。でも史実では「五虎上将」になった記録はありません。 劉備が漢中王になったとき、趙雲は四方将軍の 関羽、馬超、張飛、黄忠の下の翊軍将軍でした。

正史の中でも「趙雲別伝」の内容は、三国志本編と矛盾する内容もいくつかあり、趙雲の実績が過剰に盛られている可能性も高いといわれます。「趙雲別伝」は趙家に伝わる家伝(祖先の業績を語り継ぐための言い伝え。家伝は手柄を誇張していることがよくあります)ではないかとも言われています。

でも、正史でも趙雲は危ない場面で劉備の妻子を助けたりと個人的に「いい人」なエピソードが目立ちます。元~明初期に成立した「三国志演義」では「五虎上将」に格上げされ、道徳的にいい人の部分が強調され様々なエピソードが追加され、関羽や張飛に匹敵する人気武将になりました。

民間伝承では趙雲は「白龍」という白い馬に載っています。「白龍」は「正史」や「三国志演義」にも登場しません。「趙雲=白・銀の甲冑」のイメージはここから来ているのかもしれませんね。

大軍を率いて前線で戦った四方将軍と比べると、史実の趙雲は守備にまわったり味方の救助に向かったりする事も多く地味な存在でした。「前線で大暴れ」するタイプの武将ではありません。

劉備の死後に軍を率いて曹真軍と戦ったときには敗退していますし。前線で大軍を率いて戦うのは得意でなかったのかもしれません。でも戦いで最も難しいと言われる撤退戦を成功させているので有能な武将には違いありません。攻めよりも守りが得意な武将だったのかもしれません。

正史でも「関張馬黄趙伝」と5人の武将が伝記として書かれています。蜀漢にとっては重要な武将だったのは違いありません。国つくりには有能で裏切らない、安心して任せられる人物も必要です。そんなところが劉備から信頼されていたのでしょう。

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